庭師として生きていくということ。信念を持つということ。
- 2014.08.30 Saturday
- 22:28
少し前、1年ほど前に書いた記事を引用しながら、熱く庭師について、私の弟子への教育について書き綴っていこうと思う。
普段は下ネタも言いまくりで、冗談ばかりのヘラヘラした自分ですが、作庭時や、庭師としての生き方を指導する時、庭園見学など私を含め人生において大切な経験になるであろう場面では一切の妥協を許さず、甘えも許さず、叱咤激励する。
親方として当たり前の事なのだが、俺は弟子入りしてきた若者には最初の1年間は特に厳しく人間として、職人としての”心と技のありよう”を説く。
そして本日紹介した海外に於いても、私の私が指導する以上は同様であるといえるでしょう。
例えば、飛び石を据えること一つでも非常に大切で意味があり、力量が問われてしまうものだと自分は思う。
シンプルな飛び石をキチンと据えつけられるかは庭師として、とても重要だし、そこには様々な庭師としての必須要素が含まれているように思う。
もちろん、もっともっと様々な事柄で、職人として、庭師として、日本人として、人間として学ぶこともあると思う。
しかし、この飛び石一つを使って愛弟子に伝えられることは非常に多くあるように思えます。それは例外なく外国人を対象にしてもです。
庭師の世界が初めての新弟子や国外の日本庭園の愛好家・セミプロには、この”飛び石”という、一見何の変哲も無い只の伝いに込められた様々な”想い”を伝えるには好都合な仕事になるでしょう。
写真は1年半ほど前に弊社を卒業された西窪さんが据えてくれた飛び石。
そして、このブログを見る、若い庭師さん、はたまた一般の方や、今現在色々な分野で頑張っている人にも共通するであろうと思い書きなぐります。
飛び石は誰でも一度は見たことがあると思います。一見すれば只単に石が置いてあるだけのもの。意識もしなければ、経験の浅い庭師さんや公共工事がメインの造園会社の方なら特に重要性を置かないのかもしれません(全部がそうとは決して思っておりません)
俺達はこの何気ない飛び石を1石”据える”のにかなりの要素を検討し、そしてこのその辺に転がっていそうな石ころを並べることにさえ全力で向き合って作業をする。
そう、”置く”のではなく"据える”のです。
ここで据えるという言葉を辞書で引いてみよう。
○据える
1.物を、ある場所に動かないように置く。例:「三脚を据える」
2.建造物などを設ける。例:「本陣を据える」「関所を据える」
3.位置を定めて人を坐らせる 例:「上座に据える」
4.ある地位や任務に就かせる 例:「部長に据える」
5.心をしっかりと居定まさせる例:「腹を据える」
6.厳しい視線を置き続ける 例:「目を据える」
などなど様々な意味がありますが、私たちはさしずめ1・5・6などが当てはまるでしょうか・・・。
そう、据えるとは只単に"置く”ことではありません。私たちは何気ない石を”据えて”くるのです。動かないようにするのはもちろんのこと、その作業に於いて心をしっかりと居定め、厳しい視線で1つの石と対峙する。
そしてそれを”必死”で検討し”必至”の領域まで高め据え置くことをして心をその場に留める”残心”という据えた石に心を宿す!俺はこれを徹底させている。飛び石だけではなく、全ての作業でこれを愛弟子には伝え実践させる。
この時の現場で言えば、飛び石とは何か?何を目的に石を使うのか?そして、どんな人がどの様に使うのか、歩くのか、お施主様は右足から歩くのか、左足なのか?履物は何を主に使うのか?
それらを踏まえて、この場所で用意した石材のどの面を利用し、どの様な配列にし、尚且つ!、石のどの部分に足を置くのか?そして今の現状の庭に”美しさとしての景色!”を考慮するのか?などを検討し、仮置きをし何度も何度も熟考する。
そして、いざ据える段階でも高さなどを考慮し(水平器は使わない)”見た目の感覚の高低”を考える。
もちろん俺達の普段履く足袋での検討ではなく、実際に使うお施主様のお履物を考慮し、自分達もそれに近い履物に履き替えて検討する事を忘れてはならない!
やり過ぎと思われるかもしれないけれど、俺たちはお客様の大切なお金を使って頂き仕事をする。そう、俺達はプロだし、それ相応にお応えする義務がある!!
そして、出来上がりに時にそれらの"意図”は伝わらなくてもいい!!何気なく、それでいて"当たり前に自然に歩け、時に注意深く歩ける(変化のあるということ)”空間。それを大切にしなければならないと俺は思っている。
石をいざ据えつける時には、土を直接触った手で石材を触って汚さないことや、据えつけるのであり、置いてくる訳ではないので、強固に固定されていることは勿論です!
それをするには、なれない新弟子は手袋を外させ、素材の感覚を直で感じさせ、一心不乱につき固め、道具も適材適所に使い分け、出来上がっている場所へ足袋に着く泥を付けさせず、石材は勿論、今使っている道具にさへ最新の注意を払い作業する。
そして、今現在対峙する石に全力で向き合い、今現在自分が持てる100%を出して作業する!
これが大事と考える!!俺は新弟子で未経験者でも容赦することは無い!!
どれだけ今の状況に向き合っているかが大事で、技術だけが大事なのではない!それがおれの持論。
出来ないなりに、経験が無いなりに今という状況を必死に取り組まなければならないと思うのです。
未経験だから出来ないのは判る、そして迷うのも判る、何が良くて悪いのかの分別がつかないのもわかる!
でもねっ、死に物狂いで”この職業に向き合う”これはできると思うのです!今の自分が出来る最大限の"思いや想い”をぶつけて欲しいのです!
”作業をしてくる”のではなく、”怖くても、失敗を恐れても、全力で今、目の前にあることに全力でぶつかる!”をして欲しいのです!
言われた事を”作業としてこなす”のと、”言われた事を全力で取組む”は違うのです。
愛弟子は”作業員”ではない!、”職人に至るまでの修行者”であって欲しいのです。
俺は会社経営や仕事内容など様々に考えてしまうこともある立場・・・、
でもねっ、お弟子さんはそんなしがらみを感じなくてよく、目の前の事柄に全力を出すことだけに専念できるのだから、常に100%の自分をぶつけて欲しい。
そうしなければ、いざという時に100%なんて出せないのです。
今日という日は2度と無いのですし、毎日が尊いのです。
毎日は当たり前に過ぎていくけれど、今日という日は2度と経験できないのです。
ここで私の好きな禅語も紹介したい。このブログで何度も紹介したやつです。
随処作主 (ずいしょにしゅとなる) <臨済録>
随処に主となる
この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して
諭された言葉で「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」
の一句である。いつどこにあっても、如何なる場合でも何もの
にも束縛されず、主体性をもって真実の自己として行動し、
力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何
なるところにおいても、真実を把握出来、いかなる外界の
渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。
そのとき、その場になりきって余念なければ、そのまま
真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。
俺はそれを愛弟子に伝える。
そして、俺にも言えることだけれども、"初心!”これを忘れてはならない!と想う!
”なぜ、自分はこの職業を選んだのか!”何を目指したのか?
これを忘れないで欲しい!!そして、それが出来ない事を自分の置かれる環境にしないで欲しい!今、自分が置かれている環境が悪いから、ウチは会社の方針が・・・・・。
とか・・・そんな風に想うのは甘えだよ!!!場所じゃないんだ!規模じゃないんだ!会社じゃないんだ!!全ては自分が"どうなりたいか!”なんだ!!
愛弟子にも俺は言う!この世界で生きていきたいと思い、目指したのだろう?
俺じゃなく、他の誰でもない、自分が目指すものがあり、この門を叩たのだろう?
自分が選択したのでしょう。人のせいにしてはダメだ!
今、自分の立っている足元を見て欲しい!!
そこでも遣れることは数えられないほどにあるはず!!
出来ない理由は無い!!
必死に足掻き、苦しむ!毎日は当たり前に来るけれど、”なぜに自分はこの地に居るのか”を忘れない!!忘れたくないし、本分を全うしたい!!
自分が選んだ道を歩んで欲しい!
俺は弟子入りした子達に常に問う。
”初心”や"決心”を忘れて今の生活を送るなと!
そして、それは俺自身にも常に問う!
自分が選んだ道を脇道に逸れてしまえば、それこそ犠牲にしたことは無駄に終わる。
両手一杯に持っている様々な欲を捨てるのではなく、今現在あれこれと、両手一杯に持とうとしているものを少し脇に置き、目の前のことに全力を尽くす!!
そして、いつか、その脇に置いたものも抱えるようになるさ!!
何かに向かって頑張っている私の弟子と、このブログを読む人に伝えたい!!
「選択し、選んだのは自分自身なんだ!!その"初心と本分!”を忘れて刹那的に生きることは、決して正しいとは言えない側面を持つ!!」
何を思って、今の場所に居るのかをもう一度考えようぜ!!
俺も最近本当にそれを思う!!私、霧島宏海も本当にそれを最近考える!!
俺は庭師としてこれからも生きていく!!未熟で至らない事を知り、毎日無知な事を感じ、恥を知り、アホ面を皆にさらして生きていくことだろう!!
でも、それでも俺は、自分が"庭師”として生きていく事を決めたんだ!!
だからお弟子さん以上に、毎日を必死に生きていくぜ!!!
情けない姿を晒しながらも、不恰好でも遠回りでも俺は俺の目指したこの”降り立った地”で必死に生きていく!!
俺はこの世界で無名の取るに足らない存在の植木屋です。
でもどんな高名な先生にも負けない情熱と”決意”をもっている!!!
俺はこれからも俺の思う”生き方”をしていく!
他人に誇れなくても、自分自身に誇れる生き方をしていく!!
俺が「立派な親方」なんて言われるのは勿論まだまだ先のことです。今も私自身が庭師の末席を汚しているような小さな存在だし、日々判らない事や勉強不足を痛感して過ごしている。
でも、必死に足掻き、苦しみ、砂を噛みながらもこの自分の目指した「孤高の庭師」になろうとしがみついている。何を以って「立派な庭師」・「偉大な庭師」なのかは分からない・・・・いや、きっと自分でそれを意識してしまった時点でその高みには登れはしないのでしょうね。私には有名な庭師になりたいとか、自分の作風を確立するとか、そんな庭師に成るつもりはまったくない!
有名な寺院の作庭を出来る事が、豪邸の庭や美術館を手がける事が私にとっての「成功」ではない。
もっともっと、ささやかだけれども、しっかりとした信念がある!いや、夢というべきものかもしれない。
それは地元の造園会社やその他の職種の職人さんから、そして、出入りもしてない一般の方からも「庭匠霧島の霧島宏海は本当の職人さんだよね、庭師さんだよね」って言われる存在にはなりたい。そして出来ることなら私が携わった海外の日本庭園の専門家や愛好家からも、「彼は無名だけれどそれでも良い仕事をする本当の日本の庭師だよっ」て言われたいかな(笑)。
あぁ、俺は本当に庭師の世界の底上げをしたい。職人って云うのはこういう生き方をし、こんな風に自らの職業に向き合っているんですよって、一人でも多くの人に伝えたいと願う。
今の世の中、職人といえば学歴もなく、ガラが悪く、ちょっと怖い存在って見られてしまうことが多々ある・・・・。でも、それは違うんだと知ってもらいたい。
礼節を持ち、お客様のお気持ちを汲みながらも、自ら習得した技術や心で空間を提案し、今まで培った全てを出して、お客様の望む以上の付加価値を表現する。それが出来てこその職人だと私は思う。
そして5年後の自分。10年後の自分をイメージしているかどうかもとても大事なように思う!
私の肝に銘じている、禅僧の言葉で、大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう、弘安5年(1282年) - 延元2年/建武4年12月22日(1338年1月13日))の遺誡の一節でこの ようにいっている「只須らく十二時中無理會の處に向つて、究め来り究め去るべし、光陰箭の如し、謹んで雑用心すること莫れ、看取せよ看取せよ。」
まさにこの通りだと思う。人生というものは光陰矢のごとしだし、物事を極めに来、そしてそれを修めた後には、それに捉われることなく、新たな無理会に向かって出発する。その為には自分の目指す道から目をそらす暇などないのだという教え・・・・。
そして、自分は人に「自分の将来はどうなっていたいのですか?」って聞かれたとします。
その時私は真っ直ぐにその質問をした方の目を見てこう言いたい。
「今のままの自分でいたい!これから先何があっても、自分の進むべき道を決め、親方になった今現在の自分の心のままでありたい!」
綺麗事と人に言われてしまうかもそれない、経営上の問題や、世の中の動き、自分の思った通りなんて絶対にいかないと思う!でも私は未熟な庭師ですが、まだまだケツの青い人間ですがこれからも、そして10年後も今のままの自分で在りたい!
その為に、今何が出来るか、その為には何をするべきなのか!人間として、人として、男として私は私自身を裏切らないようにしてみせる。回り道になってしまうこともあるでしょう・・・でも決して逃げ出さない!一度逃げれば堕ちるとこまで堕ちるのは目に見えている!
安易に手に入るお金に手を出す事もしたくない!技術を安売りするのが嫌だとか、プライドを保つというのとは質が違うと思っている。
本物の「プライド」などというものは外国語で表現出来るものではないと思う。私は日本人だし、あえてこう言います。「誇り」という言霊。これを大事にしたい。
世に言うプライドというものなら私は喜んでへし折られ、捨てましょう!
でも今の自分自身が持っている人間としての、庭師としての「誇り」は絶対に捨てないでいたい!
未来へ導くのは自分自身なのだし、今の自分がブレているのなら、そこに10年後の自分は居ない!甘っちょろいという人も居るでしょう!でもその自分の「信念」が無い人ほど他の人の生き方ばかりを追う事になる。
答えは常に自分にある。
私の庭師銘は霧島宏海・・・・・そして未来の私も今と変わらずの霧島宏海でありたい。
本名:星宏海も同じです。私は私のまま是からも私に縁があった方に在りのままの自分をさらけ出し、人と人との紡ぎを大切にしていきます。
そして、愛弟子達もそうであってほしい。
毎度同じ事を繰り返す毎日ではなく、新しい一歩を怖くても踏み出す!
自分を変えるのも、周りを変えるのも、人生を変えるのも全ては自分自身。
何度も失敗してもいいと思います!でもいつまでも同じ処でグルグル回って失敗を繰り返しても仕方が無いのですから!
光陰矢のごとしです。今の時間は二度と戻る事はないのですから。今日を精一杯に生きて、明日に向かって踏み出す!皆さんも頑張りましょう!!
(有)庭匠霧島 代表取締役社長 星宏海 庭師:霧島宏海