さて、昨日お寺さんの管理人さんと話していたことより抜粋してお話したいと思う。
管理人さんとの話の中で知人の仲で最近「誰にも迷惑をかけてないで、私は私の好きな人生を歩んでいます!!」と言い切る人が増えているということでした。
そう、私自身も少なからず耳にすることがあった。
俺は、常に思うのです。人に迷惑をかけないで生きてきたかい?今現在もそうだと言いきれるのかい?今まではどうでしたか?そしてあなたに迷惑を掛ける人も居ませんか?
もしも上記の中で全てにおいてYESと答えることが出来る人なら、それはとても悲しいことで、自分自身さえも見れていない人といわざる得ないです。
俺達は皆、母のお腹で生命を誕生させて貰い、お母さんを妊婦さんとして、色々な場面で様々な迷惑をお腹の中で居てさえも掛けてきました。勿論母親は無償の愛で接します。しかし全ての人が妊婦さんや生まれたばかりの幼い私達に無償の愛で接してくれていなかったはず。
お母さんのおっぱいが無ければ、母の愛が無ければ、オムツの交換が無ければ、俺達は多くの場合、今現在この様に生きてこれていない。
私達が赤ん坊のころなど、夜鳴きでお父さんや兄弟、母親、お隣さん、電車の中、食事中泣きじゃくって迷惑を掛けまくったはず。でもそれは多くの方の慈しむ心で見守られてきた。
小学校・中学校・高校・大学・社会人・・・・全てにおいて誰かに迷惑を掛け、そしてこれからも迷惑を掛け続けるのです。それが人間ですものね。
何を当たり前の事言っているんだと思うかもしれない、でもハッとしないかな?
いままでこんなにも迷惑をかけ続けながらも周りに見守られてきて、大人へとなり、経済的に最低限は自立したら、「私は誰にも迷惑をかけてない、私は私の稼いだお金で自分の責任で自分の好きに人生を歩んでいることがなぜ悪い?」ってね。
人はすべからく、社会で生きている以上、いや、人として生きている以上は他人と関わって生きている、そして生かされている。
モノが裕福になり、文明が進むほど、経済が安定するほどにこの「自分は迷惑かけていない・自分の力で生きている」と思ってしまう傾向は強くなるように思う。
でもね、きっと私が思うに、先に述べたように人は誰かに迷惑をかけ、掛けられ、他人が居るからこそ、自分が存在することが出来るのだと思う。
少なくとも俺はそう思っている。俺はこれからもきっと未熟だし、今までもたくさん迷惑をかけてきたと思う。俺が迷惑じゃないだろうと思っていても、それは近しい人や友人・家族からの心配であったり、優しさであったり、気遣いだったりと、自分では判らないところできっと私を見守っていてくれて、迷惑をかけていない様にしていてくれていた面もあったんじゃないかなって。
自分が稼いだお金にしても、唯一無二に自分自身で稼いだのではなく、あくまでも”他者”が存在するから、その中で仕事だったり、開発による対価だったり、労働力だったり、サービスだったり、アイデアだったりして、”報酬”を貰っている。そして、それをまた人間は”他人”に支払うことで何かを得ている。
お金は本来、価値が釣り合う、もしくはお互いにとっての有意義な物々交換だったのだから。
私が言いたいこと、それは・・・決して自分は「誰にも迷惑をかけていない!」と言い切らないで欲しいということ。
無人島や世界でたった一人で生きているのならそれは正にそのままにですが、それは同時に寂しさの極地でもあり、人との関わりを捨てることになるのかもしれません。これは極論ですが。
私達は当たり前に今生きていることは、誰かに迷惑をかけながらも、”お互い様”で生きているということです。
特に俺達日本人はこの精神を大切にしてきたと思う・・・・。
確かに欧米の”個”としての主張は時に現代社会では良い面もあるのだと思う。でも、そんな欧米人は”個々の個”を尊重している。他者を認め、考えの違いを一度は認めます。全てに於いてではないにしてもですよ(笑)
でもそれは裏返すと個人の事に余り突っ込み過ぎないというのかな、俺的にはドライ(笑)なんだけれどね。
それもありだと思うけれど、俺達は日本人だし、日本人が日本人であり続けることはマイナスではないはず。
今は諸外国でのスタンダードはこうだから私達も”こうあるべき”とか、私の言うことは時代遅れとか言われるかもしれないけれど、個々の自由は誰か認めてくれ、見守ってくれる人が居てくれるからこそ成立していると思うということ。
それを履き違えて、自分は誰の助けも借りていない!自分が稼いだ金をどうするのも自由だ!!っと他者にたいして言ってしまうのはどうかなぁ?って思う話なんだ。
生まれる前から迷惑を掛け、そして死ぬまで迷惑を掛けれる人生。人と関わり、人を好きになり恋をして愛して、自分の信念を持ったり、挫けたり、泣いたり叫んだり、落ち込んだり、笑ったり。全ては他人が存在してくれているからですよね。
当たり前の毎日で日常なんだけれど、その日常の中が、平凡な日常が如何に大切で人に関わってきているかを忘れてしまっては、人間として生きている意味が無いのじゃないかな?
勿論、紛争地帯や経済が安定しない場所ではこんな事を悠長に言っている状況では無いのかもしれません。しかし、我々日本人は今、そんな状況下でもない人が大部分であり、そんな危機的状況で無い人に限って、今夜の様な「私は誰にも迷惑かけていない」発言をする。
両親が亡くなるときには、「迷惑を沢山かけることが出来て俺は何て幸せだったのだろう。ありがとうね。」っと言って送り出したい。
そして俺は本当にこんな偉そうなことは言えない立場です。それを認めています。
ですが、俺はこの何気ない毎日の中の当たり前の様に起こる、人との関わりがとても大切な事なのを決して忘れないようにしている。
自分は庭師を志してこの道を選んだけれど、そんな職人を離れたときでも、人としての、日本人としての矜持を整えようと考えています。
それをきちっと全うしているかと言えば、ダメダメな人間の一人です。
でもね、自分は人との関わりを大切にしている。
いや、したいと望んでいると言った方が正解かもしれない。
たくさん迷惑をかけて生きてきたし、たくさんきづつけた人も居たかもしれない。
そしてたくさん裏切られてしまったかもしれない、そして知らずに裏切ったかもしれない。
あるいは、はたまた信じたかったし、信じさせたかったことも多くある。
でも俺はこのブログで以前何度か書いたけれど、ゆるぎない信念を持って生きている!!
それは「俺は自分勝手に生きてはいなく、皆の支えがあり慈愛があり、優しさがあり、それが私の人生を彩り生かされていると」
そして庭師としての生き方では
「我(わ)が心の中の日本人としての庭師の和(わ)は様々な出逢いによって輪(わ)となり、それは大きな環(わ)となり、吾(わ)だけでなく全ての出逢いと関わった皆様それぞれが羽(わ)を生やし次なる世代へ話(わ)となり紡がれ、倭(わ)の人々へ届いて欲しい」
それが私の生き方。青臭いと言われるかもしれない。きっとその通りかもしれない。
でも俺は俺の目指す青臭い人生を歩む。
俺が最後の日を迎えたときに俺はその時の愛弟子や愛しい人に「沢山迷惑をかけなさい。それが人生を豊かにすることもある」と言葉を添えたい。